挫折
一度噛ってみてそのまま死蔵していたが、再び取り出してみて読んでみた。最後まで読み切れずに挫折。 分量がとりわけ多いわけでもない。記述がさほど難しいわけでもない。確かに、あの時代に西洋文明を相対化して考えようとした発想は時代に先んじたものだっただろう。そういう意味ではあの序文は読む価値がある。しかし、いかんせん、本文となると素人っぽいのだ。よく勉強しているのはわかるし、当時としても一級の知識人だったのかもしれない。しかし、内容に体系性がなく飽きてしまうのだ。内容的にも哲学書と史書の折衷という感じで、ドイツ観念論をてきとーに齧ってそれを歴史的事実(というよりは人名と言うべきか)とつなぎ合わせただけの内容に見える。 スケールの大きい歴史叙述としてブローデルやウォーラーステイン、日本史なら網野史学をすでに知っているわれわれとしては、この現代に受け入れられる内容とはとても思えない。没落史観ではなく、西欧中心主義を歴史的に批判した論者としてもサイードがいるわけだし・・・同時代の歴史家としてはホイジンガの方がまだしも味読に耐える。 この大冊を読む気力と根性、そして資金(笑)があれば、文句なくブローデルの「地中海」をお勧めしたい。もちろん、内容はまったく違うが。
シュペングラーと歴史学
第一にシュペングラーによって意義付けられた歴史学は現代において「通過するべきもの」になっている。常に彼が用いた「歴史」へのアプローチは今や、バフチーンやグレーヴィチなどの多くの学者によって解体され、もはや「昔」のものになっているのである。 第二にシュペングラーという、ある種強弁的な歴史家の概念は現代社会において適合しないものになりえているのである。それはレヴィ・ストロースたち、文化人類学者たちによって齎された「歴史の壁」を越える手段の登場によるものである。 よってこの本はある程度距離を置くことによって理解できるのでき、また「新たな歴史学」との対比を読者は求められるのである。
震えて読め!
20年以上前に一度読みかけて挫折した。 今読み始めるうちに震撼した、夜半まで本書を置くことができなかった。 シュペングラーからヒントを受けたと言うトインビー(『歴史の研究』)や、 戦略論に換骨奪胎したハンチントン(『文明の衝突』)が甘く見えてくる。 シュペングラー自ら語るようにニーチェの思考も根底に秘めた本書は 単に西洋文明の没落を予言しているだけではなく、グローバリゼーション (=西洋化)を経験したすべての文明の崩壊をさえ見通しているのである。 恐るべき予言の書であると同時に深い思索を読者の側に誘発してくれる。
参考にどうぞ
ゲバラやベルタランフィ、その他たくさんの人間がこの本について言ったことは無数にある。そのなかでもヘンリーミラーの言葉が忘れられない。 「……眠れない孤独な夜がはじまったとき、ぼくはたまたまこの本を読みはじめた。……ゆっくりと、おもむろに、人間の運命のパノラマを繰りひろげているこの膨大な書物をかじりはじめた。……ぼくにとってそれは歴史哲学でもなければ形態学的な創作でもなく、実に一篇の世界詩だった……」 「……怒涛のうえに投げ出されたコルク栓のように、ぼくはこの形態学的怪物のあとを追った。遠くからでもついて行けることが自分でも不思議だった……理解と喜びをもって読めるのは何のせいだろう。この怪物が要求している訓練、修業、知覚力はどこからやってくるのだろ。彼の思想はぼくの耳には音楽だった。ぼくは隠されたあらゆるメロディーを聞き分けた……」 この本を開くたびに、まだ見たことも聞いたこともないような土地の音楽が鳴り出す感じがする。どこか懐かしくて、残酷な、まだ鳴り止むことのない生命に飢えた、地上の音楽。 たぶん、すべての人にとってそうだとは限らないけど、ミラーのこの感性が一番ユーモラスで好きだ。まあ解釈は人それぞれだから、ホント参考までに。
日没する処の没落
原書のタイトル「Der Untergang des Abendlandes」にある 「Abendland」はラテン語の「日没する処」という意味を持つオキシデンツからの直訳で、西洋一般ではなく「ヨーロッパ大陸」をさし、特に文化的な意味合いを強力かつ皮肉を込めて表現したいときに使われます。また背景には「我々は危機的状況(日没)にあるが大丈夫だ」というようなメッセージが隠されています。つまり筆者は、20世紀初頭の米帝国主義の台頭と対峙して「日没する処=西欧」が没落していくことに警鐘を鳴らしているのです。ですから西欧と米国を一緒にした「西洋の没落」と考えるのは間違いです。英語の翻訳がWestなので日本語のタイトルもそうなってるのですが、暗喩は「Occidensの没落と米国の台頭」でしょう。
五月書房
西洋の没落―世界史の形態学の素描〈第2巻〉世界史的展望 イスラエル・ロビーとアメリカの外交政策 1
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