価値観が一つではないと、しみじみ実感させてくれる一冊
何でもかんでも現代解釈してしまうのが近頃の流行(はやり)のようですが、普遍的な人間性というものはあるとしても、やはり時代時代で生活・習慣・社会が変われば、価値観も変わり、人の在り方もだいぶ変わってこよう。現に、私たちは「忠義」や「恥」の為、家名の為に切腹なんてできない。そんな度胸もないし、何と言っても生命が一番大切だと教えられてきた。けれどそうでない時代もあった。幕末、明治、日本に訪れた外国人が見た「日本」。極端に礼儀正しく、おおらかで、好奇心が強く、自嘲することを知っていた(!?)国民・・・それは多少フィルターのかかったものであったかもしれないが、やはり一つの日本の姿だったと思う。 日本人が、西洋文明(現代では米国文明?)の目で物事を見るようになって久しい。そんな事に気づかせてくれる、まったく違う視点に立たせてくれる本です。
江戸幻想30%
名著「北一輝」の著者渡辺京二だが、まことに失礼ながら、歳のせいか、事柄の奥底まで見抜く目を失ったようだ。確かに労作である。また「私の意図するのは古きよき日本の愛惜でもなければ、それへの追慕でもない」とあり、サイードのオリエンタリズム論に批判を加え、幕末明治初期に日本を訪れた西洋人の記録を博捜しつつ、彼らの日本を美化する言説だけでなく、否定的なものも数多く引用している。だが、最終的には、30%くらいの「江戸幻想本」になってしまっているのは否めない。 なぜ日本の庶民は明るい笑顔を見せるのか。「自足」しているからである。身分の差があっても、それを所与として受け止めているからである。これを呉智英のいう「差別もある明るい社会」だと言うなら、それも良かろう。 英国産業革命などというものは存在しなかったといった面では最新の学問の成果を参照する著者は、むしろ日本についての学問に疎い。「夜這いの慣行をもつ農村部で、娘たちが結婚まで性的な自由を享受していた事実はよく知られている」と無邪気に書くが、俗説である。通常の知力を働かせれば、避妊技術のない世界で、そのようなことが可能であるはずがない。 売春施設経営者が「立派な市民であると考えられている」といった類の記述は、視覚的観察ではないから、西洋人の勘違いである。いわんや、「売春もまた明るかったのである。性は生命のよみがえりと豊穣の儀式であった。まさしく売春はこの国では宗教と深い関係を持っていた」とは、渡辺京二とはこの程度の著者であったかと思わないわけにはいかない。 眉に唾して読むべき本である。 小谷野敦
江戸時代の生活感覚が垣間見える
一言では言えませんが、何か懐かしい、田舎の叔母さんを思い出すような生活感覚が思い起こされて、ハマリました。著者の言う江戸期の「文明」の名残が、まだ少しは残っているのかもしれません。次の引用が印象に残りました。 「いまや私がいとしさを覚えはじめている国よ。この進歩はほんとうにお前のための文明なのか。この国の人々の質撲な習俗とともに、その飾りけのなさを私は賛美する。この国土のゆたかさを見、いたるところに満ちている子供たちの愉しい笑声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私は、おお、神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳をもちこもうとしているように思われてならない。」(p.11)
私達が失ったものを教えてくれる
幕末にわが国を訪れた外国人の目にこの国はどのように写ったのか、その記録の精査をとおして、わが国の近代の姿というものを極めて立体的に示してくれる有用な本です。リアルかつ多岐にわたる具体例が豊富で、たとえば江戸時代について言えば、「士農工商に分けられた封建社会」といった極めて一面的な時代観を完全に払拭してくれます。現在とは全く違う意味でのかつての文化の完成度の高さ、包容力の深さに感心させられたと同時に、月並みな言い方になりますが、私達が進歩の名のもとに失ってきたものがあまりに大きいこと、そしてそれが二度と私達の手に帰ってくることはないであろうことを思うと、胸がつまる感覚を覚えました。今の私達の居場所を知るために来し方を知りたいと思う人は、どうぞこの本を味読してください。
葦書房
江戸という幻景 英国人写真家の見た明治日本―この世の楽園・日本 (講談社学術文庫) 逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー) 欧米人の見た開国期日本―異文化としての庶民生活 韓国:倫理崩壊1998‐2008―社会を蝕む集団利己主義の実情
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